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西郷どん②(鹿児島紀行)

城山町の西郷どん

西郷隆盛の没後50年を記念して鹿児島市城山町に建立された銅像です。

鹿児島市出身の彫刻家で、渋谷駅の「忠犬ハチ公」の制作者としても知られる安藤照氏が8年の歳月かけて、1937年(昭和12年)に完成させました。城山を背景にするこの像は、陸軍大将の制服姿で仁王立ちする西郷隆盛が印象的といえます。

西郷どん①より続く


明治維新の立役者に

その後、時代は倒幕へと急速に傾いていきました。京都で起きた禁門の変(蛤御門の変)などがきっかけで確執ができていた薩摩と長州は、坂本龍馬らの仲立ちで1866年(慶応2年)に薩長同盟を結びます。

西郷隆盛をはじめとする倒幕派により、1867年(慶応3年)に王政復古の大号令が発せられ、明治の新政府が発足。やがて新政府と旧幕府軍との間で戊辰戦争が始まりますが、西郷隆盛は勝海舟と会談をした結果、江戸の総攻撃は中止となります。

そして、1868年(慶応4年)に江戸城の新政府への引き渡し、いわゆる無血開城が行われました。


西南戦争で死亡

新政府への参加は断り続けていた西郷隆盛でしたが、大久保利通らの説得を受け入れて参加を決意。1871年(明治4年)に明治政府の参議となりますが、やがて政府内で意見が対立するようになり、西郷隆盛は1873年(明治6年)に参議を辞めて鹿児島に帰りました。

1877年(明治10年)、明治政府に不満を持つ士族による武力反乱により、西南戦争が起こります。政府軍に敗北した西郷隆盛は、自決して49年の生涯を終えました。


西郷隆盛の死因

西郷隆盛は西南戦争で籠もった鹿児島の城山で政府軍に包囲され、腰と腿に銃弾を受けます。その際に「もうここらでよか」を最後の言葉に別府晋介に首をはねさせました。明治新政府の発足の重要人物でありながら、明治政府との戦いで自決することになったのです。


西郷隆盛の名言

・世のすべての人からけなされても落ち込まず、すべての人から褒められてもうぬぼれるな

・世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵(ちり)のように儚く消え去ってしまうものである。

また、西郷隆盛は座右の銘として「敬天愛人」を目標としていました。この言葉には「天を敬い、人に対して慈愛の心を持つ」といった意味があります。

身分や老若男女に関わらず分け隔てなく接して、多くの人に愛された西郷隆盛のまさに人物像を表す言葉といえるでしょう。


西南戦争が日本の国の最後の内戦と知り、西郷隆盛が気になりました。鹿児島では西郷隆盛は「英雄」ですが、その生き様は波乱万丈すぎます。今回「西南戦争」を題材にブログを書きたかったのですが、登場人物や戦争の長さが複雑過ぎて断念しました。国を憂う人物が沢山輩出された幕末の時代、今の日本にも居ても良いと思うのですが、居ないですね!!


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