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西郷どん①(鹿児島紀行)

上野恩賜公園の西郷どん

西郷隆盛(さいごうたかもり)は、幕末期に現在の鹿児島県にあたる薩摩藩で生まれます。同じく鹿児島を故郷とする大久保利通とともに薩摩藩をリードして、倒幕運動の先頭に立ちました。

徳川幕府を倒し、明治新政府の成立に貢献したことから、幕末維新の象徴的な存在として多くの人に知られています。


西郷は、薩摩藩の鹿児島城下の町で貧しい下級武士の長男として生まれました。西郷家は祖父母や兄弟、使用人など10人以上が暮らす大所帯で、生活は苦しかったようです。

しかし、薩摩藩には「郷中(ごじゅう)」と呼ばれる武士階級の子どもを教育するシステムがあり、貧しかった西郷も立派な教育を受けて育ちました。なお大久保利通は、西郷と同じ郷中で学んだ幼なじみです。郷中教育はほかの郷中と競い合うことも多く、それが原因で衝突することもあったそうです。西郷隆盛もほかの郷中に所属している少年との喧嘩で右腕を斬られてしまい、それが原因で刀を自由に操れなくなり、強い武士になる夢を諦めることになりました。この出来事がきっかけで、西郷隆盛はより学問に励むようになっていきます。


薩摩藩の中心人物に

 

青年になった西郷隆盛は、1844年(弘化元年)に農政全般を担当する「郡方書役助」という役職に就きました。西郷隆盛は農政に関する意見書をたびたび藩に提出しており、それが藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の目に留まったことがきっかけで、側近に取り立てられ活躍します。

その後、島津斉彬は急死してしまい、西郷隆盛は絶望しますが、月照(幕末の尊王攘夷派の僧侶)に説かれて彼の意志を継ぎ、国事に邁進すると決意したのです。

1858年(安政5年)の安政の大獄で幕府を追われた月照とともに、西郷隆盛は海に身を投げますが、西郷隆盛のみ助かり、奄美大島に身を潜めることとなりました。その後、島津久光の下で力を得た大久保利通により、薩摩に戻りますが、西郷隆盛は島津久光の怒りを買い、沖永良部島に流されるなど辛い日々が続きます。

西郷隆盛が島に流された2年後、薩摩は生麦事件、薩英戦争など緊迫する情勢の中にありました。そんな中、罪を許されて薩摩に戻った西郷隆盛は、大久保利通とともに薩摩藩の中心人物へとなっていきます。

(維新の歴史辞典より抜粋)

西郷どん②に続きます。


明治維新前後に活躍した人物は写真が残っているケースが多いです。坂本龍馬や大久保利通などは何枚も写真が残っています。しかし、西郷隆盛は写真嫌いだったといわれており、1枚も自身の写真が残っていません。その理由としては「西洋文明を嫌っていた」や、「忙しくて写真を撮影する時間がなかった」など、さまざまな説があります。なかでもよく語られるのが「顔が知られてしまうと、暗殺のリスクが高まるため、それを恐れていた」というものです。その徹底ぶりは明治天皇から写真を所望されても、決して献上しなかったほどだったといわれています。

西郷隆盛が亡くなってから6年後、イタリア出身の銅板画家・キヨッソーネが本人とは面識がないものの、顔の上半分を実弟の従道、下半分を従弟の大山巌をモデルにして描いた肖像画が一般的に知られている西郷隆盛の肖像画です。こちらは西郷隆盛の特徴をよく捉えているといわれています。上野にある有名な西郷隆盛像の顔も、この肖像画を参考にされました。

東京三大銅像のひとつにも数えられる上野恩賜公園にある銅像は、1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法にともなう恩赦により、西郷隆盛の「逆徒」の汚名が晴れたことをきっかけに、建設計画が立ち上がりました。西郷隆盛の死後21年が経った1898年(明治31年)に建立され、「上野の西郷さん」として親しまれています。西郷隆盛像は高村光雲氏によるもので、傍らの愛犬・ツンは後藤貞行氏によって作られました。


鹿児島市内を歩いていると、薩摩藩の歴史的人物の銅像があちら、こちらにありました。そして「維新ふるさと館」で見た幕末から維新にかけて、西郷隆盛や大久保利通、勝海舟、坂本龍馬が語る「新しい日本の未来」は、あの時代に生きた国を憂う者達には「必然かつ絶対的」な越えなければならない「大きな山」だったんだと思います。日本の南の方の地域で、今に繋がる歴史を動かした人物達を見て、今更だけど大きな感動でした。     西郷どんは②に続きます(^^)


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