薩長同盟(鹿児島紀行)
薩長同盟は、敵対していた薩摩藩と長州藩が、徳川幕府を倒す目的で結んだ同盟関係です。
薩摩藩と長州藩がとても仲良くなったのは薩長同盟の後のことであり、その前は犬猿の仲で戦争までしていました。実はそのことには背景がありました。薩摩藩は薩長同盟以前は、幕府と同じ考えの公家と武家を合体させる公武合体派という考えを持っていました。
そして、薩摩藩は会津藩と一緒に違う考え方の尊王攘夷派(天皇を尊び、外国勢力を追い払う)を暗殺していました。しかし、長州藩はこの頃は尊王攘夷派で京都を中心に大暴れしていたのです。
これに怒った薩摩藩は尊王攘夷派の公家と一緒に長州藩の人を全員京都から追放しました。このことを八月十八日の政変と言います。
それに対して長州藩の人は抗議をするため蛤御門(京都御所の門)に行きますが、薩摩藩はその長州藩の人を攻撃して長州藩を天皇の敵にしました。これを蛤御門の変と言います。長州藩は幕府から朝敵に指定され第一次長州征伐へとつながります。
長州藩はどんどん薩摩藩を恨んで行くようになっていきました。その恨み具合はわらじの裏に『薩賊会奸』(さつぞくかいかん)と書いてわらじをずしずしと踏みしめながら歩いたぐらいでした。
その結果、薩摩藩と長州藩は犬猿の仲になってしまうのです。薩摩藩と長州藩は犬猿の仲になってしまいますが最終的に同盟を結びます。
一体どういうことなのでしょうか?実はそこには薩摩藩と長州藩のある事情がありました
●薩摩藩は江戸から領地の薩摩に帰る大名行列の途中でイギリス人を斬り殺してしまう生麦事件(生麦村で起こった事件)を起こしてしまいます。これに対してイギリスは激怒。すぐさま薩摩藩を攻撃します。この戦いを薩英戦争と言います。
薩摩藩はイギリスのあまりの強さに圧倒され、このままの状態ではイギリスにこの国が乗っ取られると思い始めます。イギリスも薩摩藩が意外と強かったので、これから先イギリスと薩摩藩はとっても仲良くなります(薩英同盟が結ばれる)。
薩摩藩は外国に対して弱腰の幕府はもう役に立たないと思いどんどん倒幕に傾いていきました。薩摩藩はイギリスから大量のハイテク武器を輸入して準備万端でしたが幕府相手に薩摩藩だけでは対抗できないと考えていました。
★そこで仲間になってくれる藩が欲しかったわけです。
●長州は幕府から第一次長州征伐の兵を出されます。さらに運の悪いことに、この頃尊王攘夷で派手に動いていた時に起こした四国艦隊砲撃事件の報復として四ヶ国に下関砲台を占領されてしまいました。しかし、幕府から武器を買うことを禁止されたため武器がなくて倒幕どころではありませんでした。そのためどこかから武器を調達したいと思いました。
このように薩摩藩と長州藩は倒幕という共通の考え方になります。しかし、薩摩藩と長州藩は依然として犬猿の仲だったのであまり仲良くはなりませんでした。このままでは仲悪いままでどうすることもできません。そこに現れたのが坂本龍馬でした。坂本龍馬はそんな二藩の状態を見て『この二藩を仲良くさせれば倒幕させることができるかもしれないぞ!』と思い始めます。そこで、坂本龍馬は二藩を仲良くさせるために日本初の貿易会社を作ります。この会社のことを亀山社中といいます。
亀山社中はまず大量の武器を買い取ってその武器を長州藩に売ります。そして、その代わりに薩摩藩で不足していたお米を長州藩から買い取ってその米を薩摩に売ります。このやり方のポイントは二藩とも形では土佐藩から買っていることになっていることです。これによって恨みとか関係なく武器を調達したりお米を調達することができ、二藩ともwin-winとなることになるのです。しかし、長州藩はこの武器は薩摩藩か送られてきたことを知っていたため、徐々に薩摩藩に対して好意の感情を抱くようになっていきます。薩摩藩も同じ感情になって坂本龍馬が考えた作戦はうまくいったのでした。坂本龍馬は二藩の同盟を提案して一回は下関で同盟が結ばれると思いきや、西郷隆盛が長州側に出向くのは違うと流れてしまいます。もちろん薩摩藩はカンカンに怒ってしまい同盟が結ばれない危機に陥ってしまいます。しかし、坂本龍馬の必死の説得によってなんとか京都で薩長同盟が結ばれたのです。
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