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造幣局の桜の通り抜け

桜もいよいよ佳境に差し掛かり、ソメイヨシノは桜吹雪になりつつあります。

そんな中、コロナ禍明けから予約制になった造幣局の通り抜けに行って来ました。明日で終わるのですが、一昨日予約サイトを見てみると、朝活の時間帯に一枠空きがあり、11時から15分程ですが、人数を制限しているためスムーズに観ることが出来ました。

ここ造幣局の桜は八重桜が多くて、これから見頃を迎える花がほとんどです。

今年は、142品種340本が咲いていました(*^^*)


松月

黄桜

御室有明

「桜の通り抜け」~その歴史と桜守の奮闘~

今や造幣局の代名詞の一つともなった「桜の通り抜け」。明治16年、時の遠藤謹助造幣局長の「市民とともに楽しもうではないか」との提案により構内の桜が一般開放されたのが始まりで、令和5年には140周年を迎えます。ここでは、その略史と通り抜けを支える現役職員の日々の奮闘についてご紹介します。

明治・大正の通り抜け

江戸時代、旧藤堂藩蔵屋敷で里桜を育成しており、造幣局は敷地と共にその桜を受け継いだと言われています。
通り抜け通路は当初約1kmありましたが、明治31年に約560mに短縮。明治42年時点で18品種287本、品種は一重の「芝山」が半数を占めていました。
大正に入ると来場者も増え、同6年には戦前最高の約70万人を集めました。当時は重工業の発展期で、煤煙で桜が枯死する事態も起こっています。「芝山」が半減し、一重八重の「御車返」が主流を占めるようになりましたが、その後これも激減するなど、品種の変遷が激しかったのがこの時代です。大気汚染に弱い桜樹の維持管理のために外部専門家の手を借りるなど、多大な努力を払っていました。

昭和の通り抜け

第2次世界大戦中の昭和17年には空襲警報発令により通り抜けは開催期間途中で中止され、また、昭和20年6月の大空襲では約500本中300本の桜が焼失しました。その後復活に向けた努力が行われ、昭和22年に再開。順次桜樹の補充も行われ、昭和26年には夜間開放も始まっています。
昭和30年代中頃には工業復興に伴い再び大気汚染の問題が持ち上がりました。現在主流を占める八重の「関山」は、この頃から本数が急増しています。
長く門外不出であった通り抜けの桜ですが、昭和40年に北海道松前町に移植され、また同町から寄贈を受けました。平成3年には長野県高遠町から同県天然記念物である「高遠小彼岸桜」の寄贈を受けるなど、外部との交流が行われるようになりました。
昭和58年には通り抜け100周年を迎え、各種記念行事も行われています。

平成・令和の通り抜け

平成2年、通り抜けの桜が全国の「桜の名所100選」に選ばれ、これを記念して「桜の通り抜けの由来碑」が建立されました。平成17年には、史上最多となる114万7千人の来場者を記録。一方で、平成23年には、同年の東日本大震災を考慮し、ライトアップの中止等を行うとともに、会場で被災者支援募金も行われました。令和2・3年度はコロナ禍で中止されました。
令和4年4月現在、138品種、335本であり、桜の名所として全国から来場者を集めています。


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