知覧特攻の町を訪ねて(鹿児島紀行)

知覧特攻平和会館
特攻隊の町、知覧に行ってきました。この地を訪れるのは20年ぶりです。
今回は、じっくり映像を観て語り部さんの話も聞くことができ、前回よりも一層怒りが増してきました。
そもそも知覧は、1941年(昭和16年)、福岡にある大刀洗陸軍飛行学校知覧分所として開校されました。そこで、少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていました。
1941年12月8日真珠湾攻撃で日本は戦争の道へ
東にある小さな島国の日本がアメリカを相手に戦争を始めて、半年後の1942年6月中部太平洋ミッドウェー島周辺で行われた日本軍とアメリカ軍による海戦で日本軍は敗北します。それがミッドウェー海戦と呼ばれていた戦闘です。それ以降は戦況が緊迫し険悪になり、遂に1945年、南西諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合軍と日本軍との間で戦いが始まりました。そして3月26日の慶良間諸島米軍上陸から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われました。
沖縄を守るために
沖縄上陸が始まった4月1日から、本土の最南端にある知覧の飛行学校は「陸軍特攻基地」となり特攻作戦が始まりました。特攻隊員の募集は特に14歳から17歳で4,50倍になり、実際に特攻隊として飛行した戦闘員の年齢は17歳から32歳の若者たちです。平均年齢は21歳、彼らを戦争に駆り立てたものは何だっのでしょうか?沖縄戦で特攻戦死された1036名の隊員の内、439名が知覧から飛び立った隊員です。

旧海軍の零式艦上戦闘機(昭和55年6月知覧町で35年ぶりに引上げられました)
右翼に250キロの爆弾
特攻隊員の乗る飛行機には右翼に250キロの爆弾を積み、左翼には燃料を積んで、隊員を守るものは一切積むことなく、650㎞離れた沖縄を目指しました。知覧を飛び立ち、薩摩半島の先にある開聞岳を過ぎる頃には死への恐怖が無くなり、連合軍の艦隊目がけて突っ込んでいくのでした。
(知覧特攻平和会館のしおりより)
平和会館には、特攻隊員として飛び立つ前に書かれた「遺書」や「遺品」が約6000点、展示されています。そもそも何故彼らは死ななければならなかったのか!年端もいかない若者たちの愛国心を利用して、世界の何処にもない野蛮で愚かな施策を何故、誰も止める事ができなかったのか!
今も世界の何処かで戦争が起こっています。死ななくてもいい命、生きたくても生きることが出来なかった命を絶対に無駄にしてはいけないのです!それは私たち大人の責任において繰り返す事がないようにしなければなりません。
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